曽我正男さんの死を悼む
「戦争法案ストップ!八千代市民の集い」で挨拶する曽我さん |
心から御冥福をお祈り申し上げます。
私が初めて曽我さんと会ったのは2010年8月でした。「情報公開と市民の会」が主催する、自治体での財政問題に関する市民集会のビラを偶然、駅で受け取り、何となく集会を覗きに行ったのがきっかけでした。
当時は元日経新聞記者の上村淳三さん(現在は退会)が代表で、その日の集会では曽我さんが司会を勤めていましたが、実際は曽我さんの主導で進行されていた印象でした。
会の運動に共感した私は、その日のうちに曽我さんに電話をかけて「情報公開と市民の会に入れてください」と依頼し、快諾を得ました。その後、事務局長となった私との「名(迷?)コンビ」が誕生します。いま考えれば、あの日が、私が市民運動に関わり、結果として市議会議員になった契機となりました。
曽我さんは新潟の高校を卒業後、日本交通公社(現・JTB)で働き、傍ら同社労働組合の専従として活躍。その後、明治大学に社会人入学して卒業。大学院まで進む勤勉家でした。最近では裁判所の労働審判員資格を取得して活動の幅を広げていました。
この間に八千代市において展開された市民運動では、東京女子医大誘致(八千代医療センター)問題、新川ハコモノ建設計画の賛否を問う住民投票運動、豊田市長リコール運動、出直し市長選、市議選、9条の会、脱原発運動、安保関連法案廃止運動、市議会傍聴など、いつも中心的な立場で運動を指導してきました。
とりわけ、この間の安保関連法の廃案運動において、並々ならぬ決意で運動を牽引してきました。連日の宣伝活動、国会前行動など、近隣の市民運動団体からは「八千代市の運動はすごい」と評価を受けましたが、その立役者が曽我さんであったことは論を待ちません。
戦争法廃止!連日の宣伝行動に奮闘する曽我さん |
曽我さんのすごいところを一言で表現すれば「懐の深さ」ではないでしょうか。どのような立場の人にも胸襟を開いて接し、色づけをしません。だから相手も心を開きます。彼の人脈の広さと組織力はそこにあるのかもしれません。
私にとっては師であり、兄でもありました。だから私からのメールの冒頭は「曽我兄貴へ」でした。もっと、いろいろ教えてほしかった。もっと、酒を飲み交わしたかった。いつものように私を叱ってほしかった。しかし、もはや叶いません。
ここに書けないこともたくさんありますが、それは曽我兄貴と私の思い出として、しまっておきます。
曽我さん。志半ばのことはあるでしょうが、それは私たちが引き継ぎます。心から、「お疲れ様でしたと」言いたいのです。
合掌。
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